なぜ自分はよくアニメを見るのだろう
神西です。
今日は引用記事の練習です。
先日、ねとらぼにこんな記事がありました。
「ネット動画を見るのが苦手」 その理由を描いたマンガに「すごく分かる」と賛同の声
前提としてこの人は映像メディアの優劣を語っているわけではなく、「動画を見るのが苦手」であって「動画が苦手(嫌い/好ましくなく思う)」と言っているわけではないです。それは気をつかった表記にも表れている。そして当然、僕のブログも同様に優劣を語るものではない。
その前提を共有した上での話になりますが、
(あ、あと、今日の話は自分がアニメ好きな理由に着地するので、引用記事はあくまで前振りです。主題じゃないので適当に読んでください)
この意見が僕には結構な衝撃でした。なぜなら僕はまったく真逆の考えで生きてきたからです。
端的にまとめると「動画はずっと集中しないといけない」から苦手という話なのですが、僕としては「動画はずっと集中しなくてもいい」から好きなんですね。
たとえばアニメなんかは、第一に音声がありますから、言ってしまえば「映像付きの朗読劇」でもある。極論を言えば画面を見なくても音を聴いているだけで勝手に話が進んでくれ、顔を向けず目を閉じてても「読了」することができる(映像など無価値と言っているわけではなく、「ずっと集中しなくてもいい」という話)。対して文字メディアは「読み進める」という自力で話を追う努力をしないといけない。動画は全部受動的に体験させてもらえ得るけど、漫画なんかは自分で能動的に読むほかない。能動的であるということこそ、常に集中を求められる。
また第二に、ストーリーというものは進行上、常に重要局面が書かれているわけではない。物語には緩急があって序破急があって、その要旨となる部分って文脈から読み取れるものです(個人的には。後述)。その「状況の説明」や「見せ場が来るよという指示」だけ読み取って集中すれば理解はできる。その指示がセリフとして発声されない場合は劇伴や「間」などに現れるものですから、その違和感を感じたら巻き戻して画面をよく見ていればいい。伏線が張られる場合、必ず音や間の領域でアクセントが入るものなので。
しかしこれが文字メディアとなると、やはり一通り目を通さないと判断できない。ニュースなどは要旨が太字になっているから話は違ってきますが、こと物語という分野で言うと、伏線を伏線と気づかれると驚きがないから、あえてさらりとした書き方で流したりする。ここに音や間はない。だから全文に対して、行き届いた理解を求められる。
そして第三に、「動画は短い」。上の記事では「映画を二時間集中するのは心構えがいる」と書いてありますが、仮にこの映画が小説一冊からできているとして、小説媒体で読む場合は二時間じゃ済まないじゃないですか。僕は(作家なのに)遅読なのでどんなに早くても一週間読み続けないと終われない。「文字メディアは一端休憩をとれたり、自分のペースで進められる」ともあるのですが、それは動画も同じで、一時停止ができる(映画館でみているわけじゃないなら)。僕は一本の映画を、熱中度によっては当たり前に日を分けて一時間ずつ見たり、食事中に30分とか、小分けにします。
動画はやはり相対的に短いです。それは文字を絵や音や演技に変換して並列処理していけるからですね。
と、ここまで話の筋をまとめてきて、結局この差って何なのだろうかと考えてみると、その理由の候補がいくつか読み取れるように思います。
(僕は職業柄、読解力は人並み以上に持ってないとやってけない、成立しない立場の人間なので、読解力はあると機械的に分類できると判断して、以下、そのスタンスをとりますけども)
1.読解力の差である可能性
つまり、問題の焦点が動画形式かどうかではなく、実は「話がわからなくなる」という部分にある可能性ですね。ただこの可能性は薄いかなと思います。
…ちょっと今日の記事内容、だんだん角が立ってきている気がしますけど、最終的に誰かを貶したいとかそういうことじゃないです、そんなこと微塵も思ってないので。申し訳ない。
2.情報処理分野の話である可能性
「動画は集中しないといけない」「動画はわからなくなる」
「漫画や小説は自分のペースで咀嚼できるし、集中も局所的」
この対比が「いっぺんに来る情報量の差」から来ている可能性。映像作品というのは、音楽とセリフ、そして常に流れて変化する状況、これらが同時にやってくる。これに対して、平面で漫画なら絵と文字を順番に読んだり、小説なら文字だけを捉えていけばいい。処理がひとつで済む媒体と、並列処理が必要な媒体の差、という意味の候補。
この可能性が一番高いかなと思ってます。
根拠は先述した「動画と違い、漫画や小説は自分のペースで読める」という話。この「自分のペース」というのは、時間的尺度の話ではなくて、「それをそうと読み取る行為」描写の処理のペースを指すんじゃないですかね。文字や漫画絵は、自分で許可して順番に頭で読み取るけど、映像は勝手にいっぺんに来やがる、だから疲れる、となっている。
なので先述した僕の「動画だって一時停止できる」は、記事の話者からすれば見当違いの返答だったかもしれないわけですね(構成上あえて記しましたが)。
「バラエティは比較的見られる」のも情報量やコンテキストの面が、ストーリーものよりも軽度だからじゃないでしょうか。
3.ほかの要因、たとえば経験値の差
生物は経験することでパターンを学習しますので、自分がより慣れている媒体は把握しやすく、慣れずにいた媒体は把握するのが苦手、みたいな差。
思いつくところは、だいたいこんな感じじゃないかなと思います。
なんにせよ、動画への印象ってこんなに違うんだ、と面白く読めた記事でした。
で、今までのは前振りでここからが実は本題なのです。なんとね。記事の考察は以上で話がちょっと変わります。
今回のタイトルは「なぜ自分はアニメが好きなんだろう」ですからその話をして終わります。
これ、わりと僕を小説家として認知してくださってるフォロワーの方的には疑問かもなと感じていたので、文章にして示しておきたかったのです。
僕は物語の形式として一番アニメが好きだと断言できるくらい、アニメが好きなんですね。
でも、それはなぜ?という疑問についてはあまり真剣に考えたことはなかった。
そこに今回の記事があって、上記の結論を経て、ああなるほど、つまり動画を楽しむって実はこれだけの潜在的な課題があったんだ、ということがわかった。
で、僕はこれらの課題それ自体がかなり好きで、つまり話を追ったり、読解したり、情報処理したりする、その行為自体が好きだという事実がありまして。いっぺんに提示された情報を脳内できれいに整理するのが好きなんです(この記事自体がそんな性格を表した内容になってるかと思います)。それもアニメが好きなひとつの理由だなあと発見があったわけです。
でも、やはり一番の理由は、僕自身の経験によるところなんじゃないかなと思います。
僕は長いこと音楽を職にすることが夢で、音という要素の理解に努めてきたし、それでいて絵も、小学校の頃から教室で自作カードゲームとか作ってるくらい、長いこと好きが続いてる分野ですし、デジタルで音楽と組み合わせたちょっとしたアニメーション動画も作りましたし…そして最新の自分はというと、小説家になって物語構造について毎日うんうん唸ってます。そんな僕にとって、アニメは”自分が経験してきたそれらが全部ある総合芸術”なわけです。絵も音も話も、僕にとってはよく知ってるものだし、愛好しているものですので、アニメを見ていると「楽しい」がたくさんある。物語をぼーっと楽しむこともできるし、ライターがなぜそう書いたのか、そのセリフをどれだけ推敲したか(あるいは何も考えず作ってるか)、こう展開したということは次にどういう展開になるか、絵のきれいさ、画作りのカメラワーク的おもしろさ、わざわざ一瞬アニメーションを挟んだ理由、音楽的技術、音響の意図、セリフのテンポ、時代性、そしてそれら各々の組み合わせ方、全部がどういうことか作っている側の目線で理解が及ぶ(ある程度ね)ので、一瞬一瞬が何重にもおいしい。だからアニメが好きなんです。文字メディアの仕事してるけど。映像作品も大好き。
はい。これを表明したいだけの記事でした。
こういう事情なので、今後もツイッター上でアニメの話を定期的にすると思いますが、生暖かく見守ってくださると助かります。興味のない方が興味をもってくれるとなおうれしいです。
神西
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