群像劇って難しい
先週更新を忘れていたことに今気づきました。神西です。
先日の宣伝ツイートを拡散してくださった方々ありがとうございます。
とりあえずひと月(四回)分のブログ更新は、すべて東京タワー・レストラン関連のことにしようと思ったのですが、なにぶんネタバレと紙一重なところがあるので、若干切り口に困り始めています。
話すこと自体はいくらでもあるのですが(時間がかかった分、紆余曲折もありましたし)、まあその辺りは一旦落ち着いた、数ヶ月後くらいの更新にとっておこうかなあと。
ということで今回は、『東京タワー・レストラン』ではじめて実践したことの一つである、「視点の限定」の話題で書きます。
いや、なんてことはない話です。前作は群像劇でたくさんの主観視点があったけれど、今回はそれをなるべく抑えて、主人公という語り部にほぼ任せたよという話になります。一応ここにも理由があったので。
そもそも前作『坂東蛍子』シリーズがなぜ群像劇だったかというと、私自身が群像劇という形式が好きだったからというのもありますが(本当に大好き)、それ以上に「それが蛍子作品のテーマに沿う形だったから」でした。
『蛍子』シリーズでは、「物の見え方というのは人それぞれであり、我々は主観で生きており、物事に絶対はなく何だって相対的である」というようなことをテーマとして持たせていました。主人公である蛍子はとても我が強く、先入観に囚われがちだったり、逆に蔓延する周囲の同調圧力を物ともしないような少女です。そんな人格設定も、群像劇によって視点が他者に移った際に、物事の見え方が人によっていかに違うかを表現するためのアイデアの一つでした。
蛍子が恐れていることは、普通の人には何てこともないことだったりするし、その逆もあった。そういった常識の違いというのが、時に相手を苦しめるが、救いもするし、人はそんな相対的な社会の中で育っていくんだと私は思っています。
で、複数視点で正誤が諧謔的にズレていくような群像劇を描いたわけですが。
しかし群像劇というのは、書いてみると本当に難しかった。
上手く表現できるかわかりませんが、
たとえば五人で追いかけっこをする群像劇を例とします。それぞれがそれぞれ別の人物を追いかけてグルグル回っている。これは蛍子一巻最終話に近いプロットですが。
この場合、それぞれの視点で書かなければならないことが大きく三つあります。
まず一つ目は、追いかけている描写。本編を進行させるために必要な直近の描写ですね。多少の起伏もほしい。どう追っているのかに加え、逃げる相手が抵抗したり、罠を張ったり、そういう情報に文量が必要となる。
二つ目は、追いかけているキャラクター自身の描写。物語というのは人物がいて成り立つわけで、その人物が空っぽだったら、例えば何も考えない案山子がただ追いかけあっているのを見せられているだけだったら、読者は興味はわかない。人間的な魅力や共感があるからこそ、彼らの行く末が気になるわけです。なので、このキャラが今思っていることや信念、回想なんかも適宜はさむ必要がある。
三つ目は、オチのための描写。物語には起承転結があり、大なり小なりのうねりというのが必要になる。それは感情的な、静かな怒りのような目に見えない盛り上がり方かもしれないし、世界を巻き込んだ大きな危機を指すのかもしれないけれど、物語をきちんと成立させるには必要な要素なのは間違いないです。だから、そのオチ(集約点)を生み出すための情報を撒いておかないといけない。ミステリならば「驚くべき真相」に向けての伏線張りですね。伏線という情報にも文量をさく必要がある。
これで三つですが、他にもその時々の周囲の「状況描写」も必要ですし、新しく出てきたオブジェクトの「説明」も必要ですし、視点が戻った際、一旦間が空いたことで読者が忘れているだろう情報を再提示してあげるための「復習描写」も必要ですし、細々とあげれば他にも色々出てきます。
これを、たとえば一人の視点で語られる小説ならば、その人物の目を通して、その人物の一つの脳で考えられた一つの描写として進められるのですが、群像劇となるとそうはいかないわけです。
今回の追いかけっこでいうなら、五人それぞれがそれぞれの理由を持って追いかけているし、それぞれ考え方が違うから、見え方も違う。そういった全ての違いを表現するために、部分的に五種類の情報を用意していかないといけない。しかも、それに割ける文量は一人の視点の物語の五分の一しかないわけです。
描くことは(雑に定義して)五倍、割ける文量は五分の一。
ここまできたら、群像劇がいかに難しいか伝わることかと思います。
とにかく情報を一冊のサイズに収めることがとても困難なんです。というか私はそうでした。毎回苦労したものです。
伊坂幸太郎さんなんかは、本当にとんでもない作家さんです。実体験からそう理解しました。
というわけで、群像劇はとても技術がいりますから、私のような未熟者にはまだ早いな、と思い直し、『東京タワー・レストラン』では「視点を限定して話を書こう」と舵を切り直したわけです。
もちろんそれはそれで「はじめての試み」だったため、紆余曲折産みの苦しみはありましたが、結果としてこの判断は正しかったんじゃないかなあと思います。以前より、物語を思うようにコントロールできるようになった気がするので。
今回も新刊と小説に関する真面目な話でした。
次回からは私自身の話をちょっとしようと思います。どういう経緯の小説家なのか、みたいな話です。
神西
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