坂東蛍子、蜜柑を見つける
14.5.22 著。微修正。
坂東蛍子は手の中の百円と少しと、背後の存在、どちらに優先的に対処すべきか勘案し、開いていた掌を閉じることで、その回答の代わりとした。掌で覆い隠せる程度の金銭なら危険はない。しかしいま制服の裾を掴んでいる物が二足歩行するパンジーのめしべだったり、未来から来た自律タイムマシンのロボットアームだった場合、それは危険と言えるかもしれない。そう思ったのだ。蛍子はいざとなったら背後の相手を思い切り殴れるように、小銭を握った拳に力を込め、ゆっくり首を背面へ稼働させた。
蛍子は腰の辺りで強く服を握り締めていた小さな手を眺め、厚ぼったい腕を辿り、その先に丸い顔を見つけた。背後にいたのは女の子だった。何も考えていないような、あるいは何かをあまりにも考え過ぎてしまったような、そんなポカンとした表情で蛍子を見返している。二歳か三歳ぐらいかな、と彼女は思った。蛍子は公園の方を向いて保護者の影を探しながら、何度か子供の顔をチラチラと確認し、脳内のデータと照合した。やっぱり知らない子だ。
「みかんらお」
蛍子は一歩後ずさろうとして、自動販売機に踵をぶつけた。坂東蛍子は人並みに小さい子供が好きだったが、それ以上に苦手意識を持っていた。何を考えているかさっぱり分からないからだ。出来ることならこの場を今すぐ去りたかったが、未だに服の裾を少女に掴まれたままであったし、目が合ってしまった相手を無視することも憚られたので、仕方無く蛍子は名も知らぬ幼児に声をかけ、その行動の動機を探ってみることにした。
「え、えっと・・・なぁに?」
「みかん」
「え?蜜柑?」
「みかんられ、れるを」
蛍子の心は早くも根元から折れかけていたが、十七年間その身に溜め込んだ絶大な矜持によって何とか体勢を立て直し、現状までの情報から少女の意図を探るべく、手掛かりを整理することにした。この子は私の裾を掴んで何かを要求していた。私は自動販売機の前にいた。
(もしかして!)
蛍子は巨大なアイスピックでつむじから貫かれたような閃きを手の中に感じとって、それを逃がさぬ内に素早く自動販売機に投入した。購入を済ませ、背後に控えていた少女ににこにこと笑いかけながらオレンジジュースを手渡す。幼女は激昂した。
「みかんっみかんらお!」
「え、ええ?だって、蜜柑だよ・・・?」
「みかん!」
蛍子は少女の説教を受けながら仕方無くオレンジジュースの飲み口を開いた。私、今アップルサイダーの気分だったのに。
「あ、じゃあ飲み物じゃないとか?蜜柑そのものが欲しいの?」
蛍子は次のアイデアを実行に移すべく、近くのスーパーへといざなおうと少女の手を取ったが、少女は病に苦しむ水牛のように猛烈な反抗を見せ、蛍子の手を振りほどいた。蛍子は烈しくうねる幼児の感情の波に圧倒され、愈々動揺を隠せなくなってきていた。蛍子はドキドキしていた。この子はどうしたいのか、どうして欲しいのか、何故私の前にいるのか、蛍子には未だ何一つ分からなかった。コミュニケーションや交渉術や、これまでの人生において培ってきたありとあらゆる社会的な歯車は噛み合いを損ねてバラバラと崩れ落ち、生まれたてのポップコーンのように爆散して、坂東蛍子を就学もしていない一人の童女の前に為す術もなく立ち尽くさせた。
「みかんらろ」
坂東蛍子はひとまず蜜柑という単語に拘るのを止めることにした。「蜜柑」だけ単語として妙にくっきり聞きとれるから固執しちゃったけど、もしかしたら関係無いのかもしれない、と裾を両手で掴んでいる少女を見下ろしながら考えた。例えば「み」がアクセントに過ぎなくて、「缶」を要求してるとか、「らお」が固有名詞とか――
「みかんっえうのな、らろ!」
(やっぱ蜜柑よ・・・)
子供って怖い、と蛍子は思った。まるで違う生き物みたいだ。別の星からやってきた温厚な喋るタコと並んでいても、私はどっちに声をかければ良いか分からない。温厚なだけまだタコの方がマシかも。
でも、自分にだって昔子供だった頃はあったはずなんだ。坂東蛍子は自分の制服を握りしめている少女の両手をそっと握り返し、何事かと見返してくる少女の目を捕えた。三歳の頃に自分が何を好きだったか、何が大切だったか、そんな情報は才気煥発にして博覧強記の坂東蛍子と言えどさすがに記憶の果てだったが、手掛かりさえあれば推測することは不可能ではないはずだ。蛍子は今、幼い少女の瞳の中からその思いの手掛かりを探ろうとしていた。
夜の海のように奥底までシンと静まり返った少女の眼は、多大な自信と不満で満ち溢れているように蛍子には感じられた。そういえばそうだったかもしれない、と蛍子は思った。私も昔から自信家だったような気がするし、小さい頃もこの子と同じような目をしていたのかも。自分が絶対的な世界の支配者で、太陽が昇って沈むのも自分に合わせてのことだと思っていたし、新しく出来るようになったことは何でも偉大なことのように思えていた気がする。歩けるようになったり、言葉を話せるようになったり――
「あ!」
蛍子は童女の行動と、自信で漲る瞳と、「蜜柑」という単語を順番に思い出して、雷を受けたように全身をビクリとさせ、その後でとうとう答えを確信した。坂東蛍子は電流の痺れが抜けない手を震わせながらゆっくり持ち上げて少女を指でさし、預言者のように高らかに宣言した。
「ミカンちゃん!そうでしょ!」
最初期に覚える言葉、繰り返し使う言葉、そして覚え辛く、きっと覚えたい言葉。それは名前以外に無い。この子は名前を言えるようになったんだ、と蛍子は思った。自分のことを相手に伝えられるようになって、嬉しくて仕方ないんだ。
「みかん!!」
少女は花が咲いたように顔をほころばせると、自分の名前を叫びながら勢いよく頷いた。蛍子も嬉しくなってにっこり笑った。二人の笑顔に感化されて、電柱の蝉も思わず今年初めての鳴き声を上げた。季節は初夏。まだまだ蜜柑が若い時期だ。
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