坂東蛍子、白黒つけず
初単行本発売前夜の時期に書いた話。二巻にも部分的に引用しました。
坂東蛍子はサンドイッチをつまみながら、「不思議の国のアリス」の話を頭の中に思い浮かべていた。不思議の国のアリス。蛍子が子供の頃から大好きな話だ。1865年にマクミラン社から刊行された伝説的児童文学であり、作中に散りばめられたナンセンスな言葉遊びや不思議なモチーフによって、子供のみならず大人からも人気の高い物語であるが、実際はルイス・キャロルが1862年のロンドン万国博覧会に足を運んだ際、熱狂と混乱に乗じて密輸された清国の宝(アロー戦争時に三人の将校によって持ち出されたものである)を偶然手に入れてしまったことを描いた物語であり、同時に宝の隠し場所を示した地図の役割も持っている。財宝を巡る冒険の出発地点はチェシャー州とマージー川の境にある、とあるドールショップだ。
坂東蛍子はハムとチーズの挟まった三角巾を千切っては口に放り込む自分を、この物語の主人公と重ね合わせていた。アリスはウサギ穴に落ちてから、あり得ないような出来事と次々に直面することになる。別世界に行ってしまうのだ。では、自分はどうだろう、と蛍子は考えた。私はウサギ穴に落ちてもいなければ、喋る兎とも行き会っていない。そもそも兎のぬいぐるみなら持っているが、彼女は全身真っ黒だ。全くもって不思議の国に向かう理由がないように思える。
それでも蛍子は自分自身が別世界に迷い込んだ可能性を捨て去ることが出来なかった。何故なら自分が、現在麗らかな昼食のひと時をあり得ない人物と共にしているからだ。相手は蛍子にとって帽子屋や三月ウサギよりももっと途方も無く、理解の及ばない存在である、クラスの仇敵、金髪柳眉の桐ヶ谷茉莉花だった。
坂東蛍子は桐ヶ谷茉莉花が嫌いである。理由は定かではないが、高校二年の春に出会ったその日から存在の細部まで嫌いになった相手である。足の速さも、足の長さも、足が二本あることすらも嫌いだった。
そんな敵意の対象であるから、蛍子が茉莉花と近くにいる時は何かしらの諍いを伴う場合に限られていたが、しかし本日に限ってはそのルールはほんの僅かも適用されていなかった。蛍子は二人の間に流れる新しいルールに眉を顰めながら、いったいどうしてこんな状況になったのだろう、とため息を吐いた。
理由は当然のように蛍子自身にある。彼女は持ち前の奔放さによって、午前の授業終わりに見た晴天から天啓を受け、立ち入り禁止の鍵の壊れた屋上に忍び込んで昼食をとることを心に決めた。そして持ち前の負けず嫌いによって、先客であった茉莉花に席を譲ることにプライドが頷かず、毅然とした眼光を携えて、茉莉花の左方パンダ一頭分の距離に腰を下ろしたのだった。このとき観念のパンダは茉莉花のふとももに顎を乗せながら、蛍子の威圧的な雰囲気にさぞ辟易としたことであろう。
「なぁ坂東、おかしなこと訊いて良いか?」
先に口を開いたのは桐ヶ谷茉莉花だった。蛍子は徹底抗戦の構えで茉莉花の隣に腰を下ろしたは良いものの、沈黙の中にいることはあまり得意では無かったので、内心でホっと胸を撫で下ろした。
「えーとな・・・よし、抜けない剣があるとしよう」
「はぁ?」
「王様だけはその剣を抜けるんだ。だから王様はその剣に手をかけている。王様には守りたいものがあるから剣が必要なんだ」
アリスの次はアーサー王か、と蛍子は思った。今日は何だかイギリス文学によく行き会う日ね。
坂東蛍子の予想通り、桐ヶ谷茉莉花はアーサー王物語を知っていたし、年に一度部屋を片付ける時に件の本を掘り出しては掃除の手を止めて読み耽るぐらいには愛好していた。しかしながら、今彼女は国を守った英雄の話をしたいわけでは決してなかった。彼女は現代を生きるある一人の少女の話をしたいのである。
「そして、ここが重要なんだけど、王様は今この瞬間を逃したら二度と剣を抜けないんじゃねぇかって思ってるんだ。んでその考えはたぶん合ってる。だから王様は剣を引き抜くべきだと考えてる」
「・・・・・・」
「でも、抜きたくねぇんだよ」
茉莉花はクロールの息継ぎのように定期的に言葉を区切りながら、訥々と続けた。敵対心を剥き出しにしている自分に話すぐらいだから、これが他愛もない世間話なのは間違いない。そう蛍子は受け取っていたが、しかしそれと同時に、横目で覗き見た仇敵の、背中を丸めて両手の指をクルクルとやる仕草から、求められている回答のハードルに妙な高さを感じずにはいられなかった。
「抜きたくねぇんだ」
「そう」
「なぁ、お前だったらどうする?」
「抜くわね」蛍子はすぐさま言葉を返した。あまりの速さに茉莉花は一瞬混乱して目を白黒させた。観念のパンダに至っては全身を白黒させた。
「そりゃまた、どうして」
「抜かなきゃ何も始めらんないからよ。その王様はさ、守りたい何かに対して気負いすぎなのよね。どうせ自分が守れるかとか間に合うかとか、格好つくかとか気にしてるんでしょうけど、正直そんなのどうでも良いのよ。ていうか人生それだけじゃないの。剣はその相手を守るため以外にも使えるわけじゃない?私ならすぐに売ってお金作って喫茶店でも経営するわ。悪党退治に出発するのもありかも。その王様にだってきっと他にも色々やりたいことはあるでしょ。でもそのどれも、剣を引き抜いてからじゃないと出来ないことなのよ。剣を持って突っ立ってるだけじゃ何もならない。だから抜くわ」
「・・・」
「ソッコーで」
坂東蛍子は堂々と言い放った。言い放った後で、心の弱いところ(思い当たる節、と呼ばれるところだ)がチクリと痛んだ。
「・・・でもよ、立ち止まってるのが馬鹿らしいってことなら、抜かないって選択肢もあるだろ?スッパリ諦めるっていう」
「無いわね」蛍子は再び間髪いれずに台詞を投げつけた。なんでだよ、と茉莉花が少し遅れて噛み付く。
「だって・・・」
蛍子は一度言葉を区切って目を伏せた。手元には僅かに残ったサンドイッチがあった。卵とハムを一緒にしているサンドイッチだ。蛍子は手の中のそれを威勢よく口の中に放り込みながら、今朝喧嘩した母と、母の弁当のことを思った。
「だってその王様、たぶん寂しがり屋だもん」
坂東蛍子は両手の指をクルクルさせながら言った。
「人は寂しいから駄々をこねるの。だから、剣がどうとか駄々をこねてる寂しがり屋に手放すなんて選択肢は、ハナから無いわけ」
暫くの静寂があった。茉莉花は先ほどから鼻を上にして青空を眺めている。
彼女の瞳には数分前までは無かった強い力が宿っており、蛍子はその水晶体の奥に決心を感じ取った。蛍子は彼女の隣に座りながら、真剣に答えてしまった自分のことが馬鹿らしく思えてきていた。関係の浅い私にだから言うような軽口に、どうしてむきになっちゃったんだろう。元々どうしたいか決まっていたであろう無意味な質問に、何故か本気を出してしまった。蛍子はその理由が、彼女の質問が自分の事のように思えたからだという仮定に思い至ってはいたが、その考えを強引に捻じ伏せて、コイツが私に対抗心を抱かせるせいに違いない、と屋上の安全柵を睨んだ。
「坂東」
さっさと行きなさいよ、と蛍子が言うと、その言葉を待っていたかのように茉莉花は駆け出し、あっという間に屋上から姿を消した。
坂東蛍子は桐ヶ谷茉莉花が深い悩みを打ち明けることが出来る相手について想像した。そして、誰かに悩みを教えてもらえる人間を羨ましく思った。きっとそれはとても仲良しで、素敵な関係に違いない。親友という奴だ。理由がなくとも何処からともなく現れて、気兼ねなく考えを明かせる。自分も誰かにとってそういう人間になりたい、と蛍子は頭を持ち上げて、白い肌を夏で焦がした。
桐ヶ谷茉莉花という人物はどんな些細な悩み事も人に話したことがない。一度も話したことがないのだ。観念のパンダはそんなことを考えながら、蛍子と一緒に青空を見上げた。
夏の空の下では、白も黒も平等に日差しを浴びる。
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